個別指導塾、学習塾の住田アカデミーは「君の勉強部屋」。海田(広島県安芸郡)に根ざして33年。各自マイペースで学習、指導は個別。

Academy News 3月②

音 楽2 (ボロディン考) 3月

もう昨年の秋頃だったと思うのですが、たまたま休みの日で、何気なくテレビを見ている時、聞き覚えのある音楽が流れてきました。それは、声が(も?)とってもチャーミングな女優の木村多江さんが出ているCMのバックで流れている曲でした。最初は何のCMか分からなかったのですが、一週間後に同じ番組を録画して見て、「ION  Kesho」という、化粧品のCMだと分かりました。いやいや、問題はそこじゃなくてBGMの方です。その曲を聞いたとき、「あれ、どこかで聞いたことがあるような?」と一瞬考えましたが、さすがラヴェル党を自認する私なのですぐに思い出しました(まあ、ちょっと自慢入りました)。それは、そのラヴェルのピアノ小品で「ボロディン風に」という曲でした。この曲は2分足らずの曲で、ラヴェルの代表的なピアノ曲の中には入れてもらえないのですが、その響きはラヴェルのものだとしても、メロディーはボロディンのそれを想起させるものだと思います。ところで私としては、この曲の題名を思い出したときに、初めてこの曲を聞いた時には気にならなかったのですが、今回は、何故ラヴェルが敢えてボロディンを選んだのかということに新たに疑問を感じたわけです。っということで、今回はこのボロディンについて少し考察してみたいと思います。

さて、そもそも皆さんはボロディンを知っていますか? “誰、それ?”と思った人も、前半の文でとりあえず作曲家だろうってことは分かりますよね。そうなんです。彼はクラッシック音楽の世界ではおそらく「ロシア5人組」の一人として認知されている人でなんです。このロシア五人組というのは、まあ、“我々はロシア人として、決して西洋の音楽にかぶれず、自分たちの民族の文化に根ざしたロシア独特の音楽を造るぞ”いう考えを持った人たちの集まりです。音楽1にも登場したムソルグスキーもメンバーの一人なんですよ。でも、如何せん、この人たちはクラッシック音楽界ではマイナーな扱いをされている人たちなんですよね。だから私もラヴェルがボロディンを選んだことに引っ掛かりを覚えたわけです。だって、ボロディンって誰?状態で「ボロディン風に」という曲を発表しても意味がないわけですから。ということは、普通に考えて、当時のパリを中心とするクラッシック音楽界で、ボロディンの名前は広く知られていたということになります。それなら何故、彼の名前がそれほど知られていたのでしょうか?

っとまあ、考えるまでもなく、その理由はただ一つ、大ヒット曲があったということです。そして、それに思い当たる曲は「韃靼(だったん)人の踊り」一択です。ただし、この曲はボロディン畢生(ひっせい:生涯を通じて)の大作、歌劇「イーゴリ公」の一場面で演奏される曲なんです。結局、このオペラは未完に終わるのですが(後に五人組の盟友リムスキー・コルサコフらによって完成)、ボロディンの生前にこの部分だけは完成されていて、ヨーロッパで演奏され大好評だったようですし、その死後も当時大人気だったロシアバレエ団のこの曲のバレエ仕様による公演によってその名声を確固たるものにしたようです。おそらくラヴェルは、このロシアバレエ団の公演前後の時期にこの曲を通してボロディンをよく知るようになったのではないかと思います。この曲はオペラのいろいろな場面の踊りがあるところを集めて一つの楽曲にまとめたもので、大草原を騎馬隊が疾駆する様が目に浮かぶような勇壮な部分や、娘たちが故郷を思って歌う美しく哀愁を帯びた印象的な部分などを持つ魅力的な要素満載の曲になっています。特に、娘たちの歌の部分は後にいろいろなジャンルの音楽に編曲されて今に至っています。テレビのCMなどにもたびたび使われているので、一度は聞いたことがあるメロディーなのではないでしょうか。CMと言えば、銘柄は忘れましたが、“お茶”の宣伝のバックに彼の「弦楽四重奏曲第二番」の第一楽章冒頭部分が使われていましたね。聴いていて、なんとも優しい気持ちになる曲です。ボロディンの音楽の特徴は、ラヴェルなど、後の作曲家たちに大いに影響を与えた独特の和声と、この抒情性に満ちて哀調を帯びた美しいメロディーにあると思います。ラヴェルの「ボロディン風に」もこういったボロディンの音楽へのオマージュとして聴くことができるのではないでしょうか。

 最後に、私がボロディンの音楽について考えている時にふっと思い浮かんだ俳句があるので、良かったらボロディンの曲を聴いてみて、この句を味わってみてください。

山路来て 何やらゆかし すみれ草     芭 蕉

 

付記:

ボロディンについて言っておかなければならないことがあったのに本文では書けなかったので、ここに書きます。実はボロディンは作曲家が本業ではありません(っというか、五人組の他のメンバーもほとんどみんな本業を持ってたんですけどね)。彼の本業は化学者なのです。医学校も出ているので陸軍病院では医師としても勤務していました。また化学の分野では、あの化学の教科書や参考書の裏表紙には必ず掲載されている周期表の生みの親メンデレーエフに直接師事しています。そして、内容はよく分かりませんが、ハロゲン化アルキルの合成法、通称ボロディン反応なるものを発見して、化学史にその名を残す偉人なのです。グルジア(現在はジョージア)の大領主の私生児として生まれたので、父の戸籍には入れてもらえず、アレクサンドルと名付けられて農奴のボロディンさんの籍に入りました。でも幸いなことに実父は彼のことを愛しました。音楽も幼いころから親しめる豊かな環境で育ち、高い教育も受けることができたのです。そして、とってもとっても優しい人になりました。その優しさがいっぱい詰まっている曲、弦楽四重奏曲第二番は彼の愛する妻に捧げられました。特に、第三楽章は“ボロディンの夜想曲”として知られています。

謝肉祭の週間に、友人たちとお酒を飲んで楽しく過ごしている時に突然倒れたそうです。そしてほどなく亡くなりました。死因は動脈瘤破裂だったそうです。  享年53歳

関連記事

Academy News  8月号

歴史1(邪馬台国)その4 歴史1を書き始めたときは1回で終わる予定だったのに、ついに4回目になってしまいました。今回こそは完結したいと思っています。さて、そもそもこの歴史1のテーマは、ある学問的課題を追究するのに「学際的

Academy News 7月号

前回の「神戸」の「戸(べ)」に続いて、今回は「神戸」の「神(こう)」の方で、何故、私たちの良く知る港町「神戸」(以下、私たちの神戸)だけが「こうべ」なのか?ということについて考えてみたいと思います。さて前回、神戸という地