歴史1(邪馬台国)その4
歴史1を書き始めたときは1回で終わる予定だったのに、ついに4回目になってしまいました。今回こそは完結したいと思っています。さて、そもそもこの歴史1のテーマは、ある学問的課題を追究するのに「学際的」にアプローチすることが肝要である、ということだったわけで、これまで「邪馬台国」についてのいろいろな疑問に対して歴史学だけでなく他の分野の学問と合わせて真実に迫る、という体(てい)で書いてきました。そういうわけでまずは、(その1)から(その3)までの内容をまとめておきたいと思います。
(その1) 歴史学×地(理)学:中国の歴史書「魏志倭人伝」にその名があることから3世紀の日本に邪馬台国が存在したことは確実で、しかもその中に邪馬台国への行程が異常に詳しく書いてあったことが仇(あだ:害をなすもの)となり、プロ・アマ問わずその場所を特定することに熱中するも、大多数の人は使用した地図が現在のものであることの不合理に気づかなかった。地理学や地学分野の見解では、3世紀の九州北部の海岸線は今より南側にあり、現在半島と呼ばれているものの多くは島であったということからして、どの説も前提が崩れてしまい、間違った結論になっているということになる。かといって、3世紀の地図が正確に復元できるかと言えばそれも確実ではないとなると、この方法論で邪馬台国の場所を特定することには無理があるという結論になる。ではどうする?ということで、
(その2) 歴史学×言語学:江戸時代あたりから邪馬台国を“ヤマタイコク”と読み始めたことが元になり、後の人々は誰もが当たり前にそう発音してきた。しかし、言語学の一分野である中国古音研究によれば3世紀の中国語の発音では“ヤマドウ”に近く、少なくとも“タイ”とは読まないということが分かった。その結果、“ヤマドウ”→“ヤマド”→“ヤマト”という連想から邪馬台国と大和朝廷に何らかの繋がりがあるのではないかという疑念が生じる。では、そのつながりを示す何かがあるのか?というわけで、
(その3) 歴史学×古天文学:これまでの天文学における天体運動の規則などから逆算して古代の天文現象を研究する古天文学によれば、卑弥呼が死んだ年と皆既日食が起こった年が一致していることが分かり、日の御子(みこ)である卑弥呼はその責任を取らされて殺されたという推理が成り立つ。一方で大和朝廷の歴史を記した日本書紀には“天の岩戸”神話がある。それでこの神話は、遠い祖先である卑弥呼と皆既日食の事件をモデルにして作られたのではないかという説が出て来た。古代においては世界の各地に太陽信仰が見られるが、太陽神はすべて男である。それに対して日本だけが女神(アマテラスオオミカミ)であることについて、実際に卑弥呼が女性であることから説明がつく。ではこの説の根拠となる直接的、あるいは間接的な証拠のようなものが果たしてあるのだろうか?ということで、
(その4) 歴史学×民俗学:日本の天皇は「万世一系(同一の血統が永久に続くこと)」であることに最大の価値があります。とはいえ、古代においてはいろいろあって実際のところ3回ほど皇統が替わっている、というのが定説になってはいます。まあ、それにしたって3回目(諸説あり)の継体天皇(応神天皇の5代目の孫)が2回目の応神天皇(4世紀後半から5世紀初頭)と血縁がなかったとしても、現在の天皇までの系譜は世界最長であることに変わりはありません。しかし、この皇統を自らの意志で断ち切ってしまおうとした天皇がいました。それは奈良時代の称徳天皇です。この人は2度天皇位についていて、しかも女性の天皇です(“称徳”は2度目の呼称で最初は“孝謙”です)。実は、この天皇在位前後は朝廷内の権力闘争が激しく、人間関係が複雑に入り組んでいて全てを解説するのはとても無理なので、この回に関係のあることだけを書きます。結論から言うと、称徳女帝は皇室とは無関係の僧である“道鏡”に天皇位を譲ろうとしたのです。2人の関係性については歴史上ほんとに様々な説や噂がありますが、ここでは一切触れないことにします。肝心なことは皇位を、いわゆる一般人に譲るにあたって帝が誰に(何に)相談したかということです。その相談先、実際にはお伺い先なのですが、それは九州の「宇佐神宮」だったのです。当時すでに伊勢神宮(主祭神は天照大神)がありましたから、皇統を絶つという超重大案件についてまずはご先祖様の“天照大神(アマテラスオオミカミ)”にお伺いを立てるのが筋だと思いませんか?それなのに何故宇佐神宮だったのでしょうか。ここで一つの例を出しましょう。何代も続いた老舗(しにせ:長く続いた商店や会社)がやむを得ない事情で閉店することになりました。最後の店主となったその人はどこにそのことを報告に行くでしょうか?当然その店の初代のご先祖様のところでしょう。店には立派な仏壇がありますが、その前に座って自分の不徳を詫びるのでしょうか?いえいえ、日本人ならやはりご先祖のお墓に参ってそこできちんと相談なりお詫びなりをすると思います。それが我々日本人に広く根付いている習俗だからです。そういうことで、この例の仏壇は伊勢神宮で、お墓は宇佐神宮だったと考えると納得できると思うのですがいかがでしょうか。そう考えれば、称徳女帝が和気清麻呂(ワケノキヨマロ)を使いとして向かわせた先が宇佐神宮だったという事実は、明らかにそこが大和朝廷の宗廟(そうびょう:祖先の霊を祀る霊廟)だったからだと思うのです。
ところで、じゃあその宇佐神宮はどういった神社なのかというと、これが実は謎の神社なのです。まあ、神武天皇(大和朝廷の初代天皇ということになっていますが、おそらく創作された天皇だと言われています)が祀ってあればすべて解決となるのですが、違います。祀られているのは、比売大神(ひめのおおかみ)という女神なのです。神殿の中央に居ますので間違いなくこの神社の主祭神です。そして驚くべきことに、神殿のこの女神の両隣に、あたかも控えているかのように同時に祀られているのは、先ほど出てきた応神天皇とその母である神功皇后なのです。つまりこの女神は天皇、しかも事実上の初代天皇かもしれない究極のご先祖様より格が上ということになるのです。誰??となりますが、考えられるのは天照大神(アマテラスオオミカミ)しかいません。しかし全くそのようには伝わっていませんし、そもそもここの神官の人も分からないと言っているのです。さて、ここで思い出してください。(その3)で天照大神の“天岩戸隠れ”神話のモデルになったのではないかという事件がありましたよね。もう、お分かりでしょう。当然確証はありませんから断定はできないので、今更ですが今年の流行語大賞に乗っかって言うと、この宇佐神宮の主祭神である女神の正体は「A・R・E(アレ)」です。「邪馬台国」が「ヤマト国」で、その女王である“アレ”が初代の先祖である天照大神として大和朝廷の神話の中に登場したと考えれば、称徳女帝がお伺いを立てたお相手は“アレ”ということになって、筋が通ります。そして、「社会(村人が神社を中心に集まること)」という言葉が示すように、古代では村の中心(位置的なことではありません)に神社があったことを考えると、論理的帰結としてこの宇佐神宮がある周辺が「邪馬台国」の所在地であるということになるのです。
長くなりました。この「歴史1」では、この説を採用して“邪馬台国問題”に一応のケリをつけたいと思います。いかがでしたでしょうか?まあ、例によって楽しんでいただけたなら幸いです。
追伸
初めに書きましたが、この「歴史1」は1回で終わるつもりだったので、(その1)で魏志倭人伝による邪馬台国の所在地特定は無理があると言った後に、何の説明もなく唐突にその所在地が宇佐であると言って終わらせたことが気になって、その説明や根拠を書き始めた結果、とうとう4回目になってしまいました。実はまだ説明不足のところがあるのですが、何とかギリギリで伝えられたのではないかというところで、とりあえず「歴史1」を閉じたいと思います。多分?いや、間違いなく本編が今年最後のブログになると思います。今年の内に「歴史1」を、至らないところはありますが、一応完結できて喜んでいます。来年も頑張って面白い話、興味深い話、ためになる話を書いていきたいと思います。よろしくお願いします。それでは、よいお年を!受験生はもうひと頑張り‼