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Academy News 5月② 

地理1(神戸・後編)

ホテルにチェックインしてから少し休憩して、次の予定地である「かもめりあ中央突堤(とってい)」にタクシーで向かいます。ホテルは県道30号線が山手幹線という大きな道路に接続するあたりにあり、玄関を出ると街全体が海岸方面に向かって傾斜していて、神戸が扇状地の斜面上にある都市であることが実感できます。そして、扇の端がいきなり海に面しているというのが神戸の特徴だと思います。だから川の長さが短く、しかも流れが急であるため、河口付近には大量の土砂が堆積していきました。後になって、この地に港湾施設をつくろうとしたとき、この良質の川砂と土砂を利用して海岸線を埋め立てればよいという発想は容易にできただろうし、何より実行することにためらいがなかったでしょう。そして、海を埋め立てれば新しい土地ができるという考えの行きつく先にポートアイランドや六甲アイランドという人工島があるのだと思います。

さて、これらの人工島が浮かぶ(浮かんでいるように見えるだけです)神戸港の西端に私たちの乗る遊覧船の船着き場があります。そこはかつて“メリケン波止場”(近くにアメリカ領事館があったからこう呼ばれるようになったそうです。ああ、メリケンってアメリカンのことです。メリケンの方が元の発音に近いですよね。)と呼ばれた場所の一角にあり、今でも“メリケン”という名前のついた公園や通りがあってその名残を伝えています。そして、神戸港のシンボルである神戸タワーもここにあるのですが、残念なことにちょうど“お化粧直し”の最中で、覆いがしてあったためその姿を見ることはできませんでした。さて、船の名前は“ロイヤルプリンセス”号。ちょっと引いてしまいそうな名前ですが、総トン数414トン、定員500名という遊覧船としては相当な大きさを持つ白亜の美しい船で、私たちは2階の先頭の特等席に陣取って、クルージングを満喫しました。特に、印象深かったのは、中突堤(なかとってい)と呼ばれる、これも人工島なのですが、その南端にある海に浮かんでいるようなオリエンタルホテルの威容と、ポートアイランドに「兵庫県立医大」と「神戸学院大学」の二つの大学のキャンパスがあったこと(入試の過去問などでなじみのある名前でしたから)でした。そして、特筆すべきは(?)、港の出口(入口)にある第一防波堤東灯台の壁面に書かれている「神戸港」の文字です。みんな「え!」「どうして?」「何があった?」みたいな顔をしてましたね。この文字がですね、まあ一言で言えば“下手くそ”なんです。ユーモアがあると言えばそうなんですが、大事な働きをする灯台にユーモアがいる?とか、いろいろ考えましたが、謎のままです。ただ、一見して笑ってしまうことだけは確かなので、神戸港に出入りする船の船員さんたちは何かほっこりするという効果はあるかもしれませんね。ということで、あいにくの曇天のため見晴らしは今一つでしたが、約40分間のクルージングは無事終わりました。

 さて、いよいよ本日最後にして最大のイベントとなるディナー会場へ。もちろん徒歩です。めざす場所は三ノ宮駅のすぐ前にある交通センタービルです。途中、中華街がある南京町(なんきんまち)と旧居留地付近を通るので、やはり歩いていくのが妥当ということになりますかね。
 日本は欧米列強と不平等とはいえ友好条約を結んでいましたが、当時の中国(清)とは結んでいなかったので中国の人たちは居留地ではなく、そのすぐ西側の雑居地に住んで商売をするようになりました。そして、その人たちのために飲食店が次々にできていき、後にそこは南京町と呼ばれるようになって今の神戸中華街ができたわけです。この日の中華街は、日曜日でもあり、また広島のFFと同じく4年ぶりの「神戸まつり」の日だったので、とにかくものすごい人出でした。あちこちの店の前の屋台からいい匂いがしてきて思わず買って食べようかと思いましたが、もうすぐ夕食なので我慢して何とか通過しました。


 中華街を出て少し北に行くと旧居留地があります。ここは今でもビジネス街なので、中華街と打って変わって日曜日だからこそほとんど人通りはありませんでした。この居留地を造るにあたっては、当時まだ攘夷(外国人排斥)思想を持った人が残っていて、トラブルを避けるために、律令時代以来ずっとこの地の中心で、大いに栄えていた兵庫の津(つ;港のこと)から東へ3.5kmほど離れた神戸村の砂地を埋め立てて造られました。つまり、今の神戸の中心地は、ほぼ外国人だけの集落からスタートしたわけです。彼らはそこに碁盤状の道路をつくり街路樹を植え芝生を敷き、また貿易会社や銀行などを造ったりしました。こうして次第に出来上がっていく街の姿を見て当時の日本人はどう思ったでしょうか?実は、神戸は太平洋戦争で空襲にあい一度焼け野原になっているのです。そして戦後、都市を復興するとき神戸の人々の頭の中にあったのは居留地を初めとする異人館などの原風景だったのです。それは居留地ができた当時から居留地文化とでもいうものに神戸の人々が強い憧れや敬意を持ち、それを代々伝承していたからに違いありません。

そしてさらに、2度目の災難、あの阪神・淡路大震災が神戸を襲います。TVで見た高速道路の高架が横倒しになった光景は今でも忘れられません。この旧居留地地区の建物もその多くが倒壊してしまいました。でも、こんな度重なる災難にも負けず、10年たたずしてまた神戸は蘇(よみがえ)ります。今、私たちが目にするのは震災の傷跡などどこにもない見事に復興した、何かオシャレでレトロモダンな旧居留地なのです。
と、まあそんなことを思いながらも何とかゴール地点へ到着しました。夕食会場になるのはビルの10階にあって、料理は上品だけど値段はリーズナブルという、いかにもオシャレだけど庶民的という神戸らしいお店で、たいへん満足しました。お酒も進んで、オジサンたちの饗宴は大いに盛り上がりましたが、教育上問題があるかもしれないので(冗談です)ここの場面はカットします。

私はというと、久しぶりの楽しいお酒だったので少し過ごしてしまい、夜中にのどの渇きを覚え目が覚めてしまいました。水の買い置きがなかったので水道水を飲んだのですが、後で考えるとあれは“布引の水”だったのか“淀川の水”だったのか、残念ながら酔っていたのでよく分かりませんでした。旅の終わりになって思いもよらぬ宿題ができてしまいました。はてさて、今後再び神戸を訪れることがあるのかと考えましたが、でもいつかまた神戸を訪れて、この問題を解きたいとも思いました。その時も、神戸はきっと変わらずオシャレで美しい姿のまま迎えてくれることでしょう。

地理1( 神戸・後編) 終わり

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