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Academy News 4月②

歴 史 1  (その3)

「学際的」というキーワードを基に書き始めたこの「歴史1」も、第3弾になりました。今回は、第2弾で予告したように「古天文学」から、邪馬台=ヤマトという等式が成り立つのでは?という説についてご紹介したいと思います。実は、今回は私の“大ウソ”を書く余地がなさそうなので、「紹介」としておきました。初めに白状しときますが、それほどこの新説は斬新で独創的なのです。その説とは、私の20年来の愛読書である「逆説の日本史」の著者井沢元彦氏が提唱しているものなのです。

 早速ですが、まずは、卑弥呼の没年に着目します。魏志倭人伝によれば、彼女は紀元248年に亡くなっています。この卑弥呼の死は、歴史学者の中では資料中の単なる死という扱いだったようですが、この事に異を唱える人たちもいました。その代表的な人は、作家の松本清張です。彼は、邪馬台国とお隣の狗奴国(くなこく)との争いで、邪馬台国側が負けたか、あるいは負けそうになったことの責任を取らされて、卑弥呼が殺害されたと考えました。古代では、中世の王と違って「力」ではなく、何らかの霊力や呪力を持った人が王になっていた例が多くみられ、その王の霊力や、呪力が弱くなったり無くなったりしたときは、その王を殺して新しい王を立てるというようなことが行われていました。古代人にとって、王の存在は世界そのものであり、王の生命力が落ちることは、そのまま世界の危機であるので、この時に生命力にあふれた新しい王に“取り替え”てまた世界を永らえさせるという考えだったのでしょう。実はこういった事例は、イギリスの文化人類学者ジェームズ・フレイザーの「金枝篇」に詳しく述べられており、清張さんもこの著作を参考にしたと言っています。

 さて、この“卑弥呼殺害”については同意見なのですが、その原因を清張さんとは違ったところに求めているのが、「井沢新説」なのです。彼は卑弥呼の没年である紀元248年に起きたある天文学上の現象を基に推理しています。その現象とは“皆既日食”です。日付まで分かっています。紀元248年9月5日です。これが“古天文学”なのです。驚きですよね。さて、今でこそこの“皆既日食”は“天体ショー”のような扱いになっていますが、おそらく、現代の幼稚園児程度の科学的知識しかなかったであろう古代人にとって、この皆既日食は天地を揺るがす大事件だったのではないかと想像できます。そして実は、ちょうどこの90年前にも“皆既日食”がありました。これも古天文学によれば、紀元158年7月13日です。そして、その時期は「後漢書東夷伝」によると、倭国大乱の時期にあたっているのです。この後卑弥呼が登場してきて、大乱が終息するという流れを見てみると、紀元158年の皆既日食が切っ掛けで、その乱が起きたのではないかと推理できます。つまり、お日様がまたいつか消えるのではないかという民衆の不安が国中に伝播して、その不穏な空気が様々な事に影響を及ぼし、乱にまで発展したのではないか、そして、その後も乱は収まらず、何十年かたってみんなが争いに疲れたころにタイミングよく太陽に仕える巫女(みこ)、つまり日の巫女とかなんとかいう触れ込みで卑弥呼(ヒのミコ)が世に出てきたのではないか、ということです。そして、紀元248年、邪馬台国と狗奴国との争いが起きている時に、今度は最悪のタイミングで“皆既日食”が起きたのです。90年前の記憶が何らかの形で伝わっていただろうし、日の巫女として卑弥呼が女王になった経緯からも、間違いなくこの皆既日食はすべて、女王の霊力の衰えが原因であるということになったことでしょう。そしてその後、“王(女王)”の取替えがあったことは想像に難くないと思います。まあ、どこまで行っても仮説の域を出ませんが。でも、卑弥呼の死後、すぐに壱与(いよ)という少女が、次の女王になったと魏志倭人伝にあります。これはつまり、若い生命力に溢れた(女)王に取り換えたということにならないでしょうか。

 さて、本編の主題は、邪馬台=ヤマトが成立するか、ということでしたが、まさにこの日食事件が大和朝廷との繋がりを示す要因になるのです。大和朝廷は、自分たちこそがこの国の正当な統治者であるということを内外に示すために、記紀(古事記・日本書紀)を編纂しました。この中に、遠いご先祖様のことが書かれている部分があります。所謂“神話”というやつです。この神話で最も有名なのが“天岩戸(あまのいわと)“神話ではないでしょうか?太陽神天照大神(アマテラスオオミカミ)が、弟である須佐之男命(スサノオノミコト)の乱暴狼藉に憤って天岩戸の中に隠れた結果、世の中が真っ暗になったという話です。この神話が日食を表しているのではないかという考えは江戸時代からあったようですが、小説で、映画にもなった「天地明察」を観ても分かるように、この時代にはすでに日食は学問的に認知されていました。ただ卑弥呼の死んだ年に日食があったことなど、さすがにまだ知る由もありませんよね。でも、私たちは知ってしまいました。っというわけで確かな証拠はないにせよ、ここまでのことを推理を交えて整理してみます。まず文明の「幼稚園時代」に古代人たちは初めての皆既日食を経験し、太陽を畏れ敬うようになり、そして争いの中、その太陽に仕える巫女、すなわち日の巫女として卑弥呼が女王に擁立されます。また、彼女はおそらく年月を経て太陽の化身である日の御子(みこ)として自らを信仰の対象にしたと思われます(新興宗教のキョーソサマは大体こういう経過をたどりますよね、まあ、個人の感想ですが)。そして、紀元248年の皆既日食によって信仰の対象から憎悪の対象に転落し殺されてしまいます。しかし、殺されたことによって彼女は伝説になったのだと思います。この一連のストーリーが一族の記憶として伝承され、アマテラスの天岩戸隠れの神話になったのではないでしょうか。そして、この「アマテラスの神話」は大和朝廷の神話なのです。邪馬台が「ヤ・マ・ト」(歴史1のその2参照)に近い発音であることと合わせて、邪馬台=ヤマトという等式成立が、信憑性(しんぴょうせい;真実性)を帯びてきたと思いませんか。

 さて、ホントはこの(その3)で歴史1は完結する予定だったのですが、思いのほか長くなってしまいました。っというわけで、今回は学際的に古天文学を基に邪馬台国の謎に迫ってみた回ということで一旦締めます。次回こそ、歴史1を完結したいと思います。では、また。

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